連載「箱(ハコ)の言葉」第1回
午後4時の会場には、誰もいません。
椅子はまだ積み重ねたままで、ステージの上には何も置かれていません。外階段の窓から午後の光が入ってきて、床の一部だけが明るくなっています。3時間後にはここが人でいっぱいになるということが、この時間だけは少し信じられません。
私たちはこの場所のことを、ふだん「箱」と呼んでいます。
こんにちは。東京・御茶ノ水のライブハウス「御茶ノ水パルトネール」です。
今回から数回にわたって、ライブハウスの現場で飛び交っている言葉の由来をたどる連載を始めます。「箱」「バミる」「ゲネプロ」「ケツカッチン」「押す」「巻く」──辞書を引いても出てこないか、出てきても違う意味が載っている、この業界だけで通じる言葉たち。それがどこから来たのかを、一つずつ調べました。
そして、調べてみて驚いたことがあります。私たちが当たり前のように信じていた「語源」の多くが、根拠のないものだったのです。
この連載の約束
言葉の由来というのは、実にいい加減に広まります。もっともらしい説明ほど、たいてい誰も確かめていません。
ですからこの連載では、国語辞典・専門辞典・学術研究にあたって裏を取り、どこまで確かなのかを毎回はっきり示します。 記事の中で、次の3つの印を使います。
- ◎ 確かめられた ── 辞典や研究で由来まで確認できたもの
- △ 決着していない ── 説が複数あり、どれとも決まらないもの
- ✕ 根拠がなかった ── 広く信じられているのに、調べたら出てこなかったもの
そして、この記事で「分からなかった」と書いたことは、本当に分からなかったことです。もっともらしい説明で埋めていません。
さっそくですが、その最初の例が、この連載のタイトルにした言葉です。
「箱」の由来は、分かっていません ✕
ライブハウスやクラブのような、小さめの会場のことを、この業界では「箱」と言います。
「今日の箱は下北」「うちの箱は50キャパ」「大箱」「小箱(コバコ)」。会場を貸し出すことを「箱貸し」、特定のお店に専属で入って毎日演奏するバンドのことを「箱バン」と呼びます(もとはキャバレーやホテルのラウンジに入っていた専属楽団を指す言葉でした)。
では、なぜ「箱」なのでしょうか。
インターネットで調べると、答えはすぐ見つかります。「四角い箱のような空間だから」。なるほど、と思います。実際、多くの解説サイトがそう書いています。
ところが、この説を裏づける資料が、どこにも見つかりませんでした。
「箱=催し物を行う建物」という意味そのものは、辞書に載っています。 デジタル大辞泉という辞典には、「箱」の一つの意味として「劇場やホールなど、催し物を行う建物」がきちんと立項されています。つまりこれは、業界の隠語というより、すでに日本語として認められた言い方なのです。
ただし、辞書はどこにも「なぜ箱と呼ぶのか」を書いていません。
しかも、もう一つ気になることがありました。古い時代の用例を丹念に集めることで知られる『精選版 日本国語大辞典』には、この「劇場」の意味が載っていないのです。 これは、「箱=会場」という言い方が比較的新しいことを示しています。
もっともらしい別の説もあります。「昔、芸者さんの三味線を入れる箱を持って供をする男を『箱屋』と呼んだ。そこから来ている」──これも一見それらしい。しかし調べると、その「箱屋」の用例は1771年の洒落本にさかのぼるもので、花柳界の言葉です。ライブハウスの「箱」との間には250年近い隔たりがあり、両者をつなぐ根拠は何も見つかりませんでした。
「箱」の語源を扱っている日本語俗語辞書自身が、こう書いています。「詳細は不明」。
この連載のタイトルにした言葉の由来が、実は誰にも分かっていない。最初の一語から、これです。

ライブハウスの「箱」の中身。用語を示すための模式図で、実際の間取りとは異なります。この記事に出てくる言葉は、ひととおりこの図の中にあります。
「ライブハウス」という言葉が生まれた日 ✕
もう一つ、有名な話があります。
「ライブハウス」は和製英語です。英語では通じません(英語圏では music venue、live music venue、あるいは単に club と言います)。これは◎、複数の資料で確認できました。海外のアーティストに “live house” と書いても伝わらないことがあるので、私たちも英文では言い換えています。
問題はその先です。
音楽好きの間でよく知られている話に、「日本で最初に『ライブハウス』と呼ばれたのは、1973年に京都で開店した『コーヒーハウス拾得(じっとく)』である」というものがあります。Wikipediaにも新聞記事を典拠として載っていますし、私たちもそう思っていました。
ところが、この年代の主張は、学術研究によって否定されています。
大阪大学のリポジトリに収められた音楽学の研究(村尾尚哉)は、1970年代の京都の音楽実践の場所を調べたうえで、注記にこう書いています。
1970年代中盤から使用例がみつかる「ライブハウス」という言葉は、(中略)1970年代前半には存在しなかったものと考えられる
同じ研究が挙げる同時代の一次資料での最古の用例は、1975年5月号の雑誌『プレイガイド・ジャーナル』でした。つまり、1973年の時点では、まだこの言葉自体が存在していなかった可能性が高いのです。
誤解のないように書き添えます。拾得というお店が1973年2月に開店し、今も営業を続けているという事実は、まったくその通りです。 京都の音楽文化にとって重要な場所であることも変わりません。誤っているのは「そのとき、その言葉で呼ばれていた」という部分だけです。
さらに言えば、拾得より前にも生演奏を聴かせるお店はありました(東京の烏山ロフトは1971年です)。
ここから分かるのは、ひとつのことです。「業態が生まれること」と「言葉が生まれること」は、別々に起きる。 場所のほうが先にあって、名前は後から、誰が言い出したとも分からないうちに広まっていく。この連載でこれから何度も出てくる構図が、いちばん最初にあります。
楽屋は、もともと音楽室でした ◎
暗い話ばかりでは申し訳ないので、きれいに由来がたどれる言葉も一つ。
楽屋です。
出演者の控室のことですが、この語はもともと「楽(がく)の屋」でした。舞楽──舞をともなう雅楽──で、楽人が演奏をした、舞台の後方の場所を指す言葉だったのです。屏風や幕で仕切られていて、舞人の着替えや出番待ちにも使われていました。
その後、能では囃子方が舞台の上に出て演奏するようになります。すると「楽の屋」は演奏の場ではなくなり、演者が準備をして待つ部屋へと意味が移りました。今の楽屋です。
演奏していた部屋が、演奏しなくなって、控室になった。言葉だけが元の場所に残っている。
ちなみに、ステージの脇にある、客席から見えない待機スペースを「袖(そで)」と言います。こちらは着物の袖に見立てたという説が広く語られていますが、それを裏づける古い文献が示されておらず、△「決着していない」の側です。
「キャパ70」は、ひとつの数字ではありません
ここからは、言葉の由来から少し離れて、実務の話をさせてください。
会場の収容人数を「キャパ」と言います。英語の capacity の略で、これは◎、疑いようがありません。
ただ、この言葉には注意すべきことがあります。「キャパ」は、ひとつの数字ではないのです。
消防法上の収容人員は、面積をもとに算定されます。立ち見の席と定めた部分は1人あたり0.2平方メートル、そう定めない場合は1人あたり0.5平方メートル。 つまり同じ広さの部屋でも、立ち見にするか椅子を並べるかで、定員は倍以上変わります。
どちらが本当か、という話ではありません。どちらも本当です。 だからこそ私たちは、会場をお貸しするときも、お客様に定員をお伝えするときも、「どちらの数字か」を必ず添えるようにしています。「キャパ70」とだけ書かれた案内を見て椅子席を想像すると、当日その落差に驚くことになるからです。
袖は、下手(しもて)側にあります
もう一つだけ、この会場の話を。
先ほど出てきた「袖」──ステージの脇にある、客席から見えない待機スペースのことです。小さなライブハウスには、この袖がない、あるいはほとんどない会場も少なくありません。そういう会場では、出演者は楽屋から客席を横切り、お客様の間を通ってステージに上がることになります。
御茶ノ水パルトネールには、袖があります。ただし、片側だけです。下手(しもて)側にあります。
「下手」というのは、客席から見て左のこと。反対の「上手(かみて)」が、客席から見て右です。
お気づきかもしれませんが、これは「見る人によって左右が入れ替わる」言葉です。ステージに立っている人から見れば、上手は自分の左手側になります。だからこの一語は、現場でいちばん事故を起こします。しかも調べてみたところ、上手・下手という呼び方の由来そのものが、決着していませんでした。 その話は第4回で詳しくお話しします。
さて、袖が片側しかないということは、出入りの動線が一方通行だということです。出演者は必ず、お客様から見て左手から現れて、左手へ帰っていきます。 転換で機材を出し入れするのも同じ側。ドラムセットの位置も、マイクスタンドを置く場所も、この一方通行を前提に決まっています。
さらに言えば、下手側に寄っているのは袖だけではありません。PAの卓も、バーカウンターも、すべて同じ側にあります。 この会場の機能は、ぜんぶ左に集まっているのです。
こういうことは、お客様がご存じである必要はまったくありません。でも、次にこの会場にいらしたときは、開演の直前、少しだけ左のほうを見ていてください。 そこから出てきます。
おわりに
午後4時の誰もいない部屋を、私たちは「箱」と呼びます。その言葉がどこから来たのかは、分かりませんでした。
けれど、分からないと分かったことにも意味がありました。この業界の言葉は、書き残されずに、口から口へ受け継がれてきたのです。誰かが「これはこういう意味だよ」と言えば、その場でそれが定説になる。反証する文献がそもそも存在しない。だから、もっともらしい説明が後から生えてくる。
次回は、開演の3時間前──機材が運び込まれ、床に銀色のテープが貼られていく時間の話です。そこで使われる「バミる」という言葉には、辞書が「語源は不詳」と書いているにもかかわらず、業界のほぼ全員が信じている説があります。そして、それとはまったく別の由来を語る、当事者の証言が残っています。
ライブハウスに行ってみたいけれど少し不安、という方へ
別の記事で、世の中の「ライブハウスが怖い」という声をひとつずつ調べて、当会場の実際と正直に並べています。→「『ライブハウスが怖い』と検索したあなたへ」
御茶ノ水パルトネールについて
御茶ノ水パルトネールは、東京・御茶ノ水の楽器の街にある小さなライブハウスです。日々さまざまなライブイベントを開催しています。ご不明な点は、お気軽にお問い合わせください。

