連載「箱(ハコ)の言葉」第4回
午後7時。
3階へ続く外階段に、お客様が並んでいます。来た順にお並びいただいて、扉が開くのを待つ時間です。
やがて扉が開き、フロアの明かりの下で、それぞれが思い思いの場所に座ります。そして──その明かりが、落ちる。
こんにちは。東京・御茶ノ水のライブハウス「御茶ノ水パルトネール」です。ライブハウスの現場で飛び交う言葉の由来をたどる連載、第4回です(第1回「箱」・第2回「バミる」・第3回「中の音と、外の音」)。
記事の中の3つの印はいつもどおりです。◎ 確かめられた/△ 決着していない/✕ 根拠がなかった。 今回は光と合図の言葉──そして、この連載でいちばん現場で事故が起きる言葉の話です。
「客電が落ちる」の、客電
「客電(きゃくでん)」は客席の照明のことです。「客電を落とす」で開演、「客電が入る」で終演。合図として機能する言葉で、語源は「客席の電気」の略──まず間違いないのですが、そう書いた辞典までは見つかっていません。
そして正直に書くと、これは劇場・ホール側の語です。ライブハウスの現場では、単に「明かり」「フロアの明かり」と言うことのほうが多い。ホールを借りて企画をやるときは、技術スタッフと語彙を合わせておく必要があります。
明かりの操作には、対になった言葉があります。暗転は、幕を下ろさずに舞台と客席の照明を消して場面を変えること。明転は、明るいまま、お客様に見せながら転換することです。
面白いのは、意味が流れた向きでした。「暗」+「転」の漢語的な造語で、一般語の「事態が暗転する」のほうが、演劇用語からの派生です◎。一方の「明転」は後から作られた対義語なので、日常語には出ていきませんでした。
ここには実務上の注意があります。対バンの入替は、基本的に明転です。 客電をつけたまま機材を入れ替える。暗転するのは演出上の意図がある場合だけです。ですから「暗転します」とだけ伝えると、出演者の方は真っ暗になる想像をしてしまう。私たちが文書に書くときは「客電を落とします」と、動作のほうを書くようにしています。
上手と下手 ── 現場でいちばん事故る言葉の、決着していない由来 △
第1回で、この会場には片側にしか袖がないと書きました。下手(しもて)側です。 卓もバーカウンターも同じ側にある、とも。そのとき「その話は第4回で」と置いていったのが、今回の本題です。
客席から舞台を見て、右が上手(かみて)、左が下手(しもて)。 演者から見れば左右は逆になります。機材の配置も、立ち位置の指示も、この2語で伝わります。現場でこれほど使う言葉はありません。
その由来を調べました。説が、少なくとも3つありました。
1. 上座・下座説 ── 最も広く流布しているもの。身分の高い者が座る側を「上座」とし、客席から見て右がそれにあたるとします。
2. 南面・東方説 ── 電気照明のない時代、芝居小屋は舞台を北・客席を南に置きました。日照と眩しさの都合です。その結果、客席から見て右が東、つまり日の出る方=上位になった、とするもの。
3. 歌舞伎の格付け約束事説 ── 身分の高い役を向かって右に置く約束から生じたとするもの(1と地続きです)。
「手」の部分は「行く手」「山の手」と同じ、方向を表す接尾辞です。
そして、決着していません。複数の舞台用語集が、自分たち自身で「語源は定かではありません」と書いています。
さらに調べていて、決定的だと思ったことがあります。
英語では stage left / stage right と言います。ただしこれは演者視点です。だから日本の上手・下手とは左右が反転します。フランス語ではまったく違って、côté cour/côté jardin ──「中庭側」「庭園側」。コメディ・フランセーズという劇場の立地に由来する呼び方で、日本語の語源とは無関係な、別系統の名づけです。
つまり、舞台の左右をどう呼ぶかは、文化ごとに、それぞれ別の理屈で決まっているということです。どこかに普遍的な根拠があって、そこから各国語が分かれたわけではない。日本の上手・下手に定説がないのも、たぶんそういうことなのだと思います。

上手と下手。用語を示すための模式図です。
だから、括弧を付けて書きます
由来が決着していなくても、現場は困りません。困るのは、左右が入れ替わることのほうです。
ですから私たちは、文書に書くときは必ず「上手(客席から見て右)」と括弧を付けることにしています。口頭でも、初めての方には一度添えます。「じょうず/へた」とまったく同じ表記なので、社外に出す文書では読み仮名も振ります。
もうひとつ、意外な落とし穴があります。撮影のスタッフは「カメラ向かって右」と言うことがあります。 カメラが客席側にあるとは限りませんから、ここで食い違う。写真や動画の入る日は、実際の物と人を指しながら決めるほうが安全です。
前後を指す言葉も一緒にどうぞ。舞台の客席に近い側が「ツラ」、後方が「奥」。「もう少しツラに出てください」「ドラムを奥に寄せましょう」というふうに使います。一般語の「面(つら)=表面・前面」からの転用【有力】で、英語の down stage / up stage にあたります。
光の言葉 ── 地平線と、後から作られた頭字語
ここからは、落ちた客電の代わりに点く明かりの話です。
ホリゾント ◎。 舞台の最奥に張った幕、またはそれを照らす照明。空や背景の色を作ります。略して「ホリ」。これはドイツ語の Horizont(地平線)で、遡るとラテン語 horizon、古典ギリシア語の ὁρίζων(境を定めるもの)にたどり着きます。この連載で語源が完全に確定している、数少ない語のひとつです。
ただ、正規のホリゾント幕を持つライブハウスは多くありません。当会場にもありません。ステージの背面が白い壁なので、そこに明かりを当てて色を作り、その照明を「ホリ」と呼んでいます。幕の役割は、壁が引き受けている。地平線を作るための幕は無くなって、名前だけが残っている。 この話は、後の回でもう一度します。
PAR(パー/パーカン)◎。 ロック系のライブハウスの主力になっている、太いビームを出す灯体です。Parabolic Aluminized Reflector(放物面アルミ蒸着リフレクター)の頭字語で、もともとはランプの規格名。車のヘッドライトや飛行機の着陸灯と同じ系統の技術です。「パーカン」は缶(can)のような筐体の形から。中身がLEDに替わった今も、呼び名だけが残っています。
ゴボ ✕。 灯体に入れて模様や文字を投影する型板のことです。この語には、業界で広く語られている説明があります。「GOes Before Optics ── 光学系の前に置くもの、の頭字語だ」。
これは、違いました。
- Merriam-Webster が記録している初出は1923年。語義は「カメラを光から守る衝立」。
- Oxford の初出は1930年。語義は「マイクの防音シールド」。
つまり、初出時点のゴボは、模様を投影する型板ではありません。 ただの遮光板・遮音板です。光学系の前に置く型板という現在の意味は後から生まれたもので、だとすれば “goes before optics” が語源であるはずがない。後から作られた頭字語(バクロニム)です。最有力とされているのは “goes between”(光源や音源と、機材との間に置くもの)の縮約という説。エジソンの録音現場で音を抑えるために立てた衝立が go-between と呼ばれ、それが映画スタジオの遮光板へ転用された──という経路が語られています。
第2回で「バミる」を扱ったとき、辞書が「語源不詳」と書いているのに業界のほぼ全員が信じている説がある、という話をしました。ゴボはその親戚です。もっともらしい頭字語は、後からいくらでも作れてしまいます。
残りは短く。ピンスポは、人が操作して演者を追いかける、輪郭のはっきりしたスポットのこと。英語にも pin spot はありますが、そちらは非常に細いビームを出す小型の灯体を指し、人が追う灯体は英語では follow spot です。指しているものが違います。
地明かり △ は、舞台全体をおおむね均一に照らすベースの明かり。語源を示した信頼できる出典は見つからず、定義まで揺れていました(ベースライトの意味と、仕込みや転換のための作業明かりの意味)。ですから「全体が薄く点いている状態」と言い換えて確認するのが安全です。なお「顔に当ててほしい」というご要望は、地明かりではなく前明かりの話。ライブハウスは客席側に照明を吊るバーがなく、前明かりが弱い会場が多い。「顔が暗い」が、構造上の限界であることもあります。
登場の合図 ── SE、板付き、キッカケ
客電が落ちて、音が流れ出します。
SE は英語 Sound Effect(効果音)の略【有力】。映画や劇伴の効果音を指す語が出発点で、日本の音楽現場では「出演者の登場曲」まで意味が広がりました。他業界のSE(システムエンジニア)と紛れるので、社外に出す文書では「登場SE(登場曲)」と補っています。
似た役割の言葉に「出囃子(でばやし)」があります。こちらは語源がはっきりしています◎。「出(登場)」+「囃子」で、「囃子」は「はやす(映えるようにする・引き立てる)」から生じた語。もとは上方落語だけの慣習で、東京では大正期に睦会が取り入れて広まりました。 近ごろは野球選手や芸人の登場曲を「出囃子」と呼ぶ用法も一般化していますが、音楽ライブの現場では、まず「SE」と言います。 当会場でも、トークショーのような演芸寄りの企画のときだけ「出囃子」が自然に通じます。同じものを指しているようで、別の世界から来た言葉です。
板付き【有力】。 照明がついた時点で、すでに演者が舞台の上にいる状態のことです。ライブハウスで言う「板付きスタート」は、SEを流しながら先にステージに立って始める演出。「板」は舞台の床のことで、歌舞伎の舞台が木の板張りだったことに由来する、という説明で舞台用語集は一致しています。ただし辞典の語源欄に「板付き」を立項した記述までは確認できなかったので、◎には上げませんでした。
実務のほうが大事です。板付きでいくと、転換が終わってから客電が落ちるまで、演者は暗いステージに立ったまま待つことになります。照明とPAとの合図を、先に詰めておく必要があります。
その合図が「キッカケ」、あるいは「キュー」です。「サビ頭がキッカケ」というふうに使います。
日本語の「切っ掛け」は、はっきりしています◎。原義は「物を切り始めた部分」。そこから「物事を始める手がかり」へ広がりました。歌舞伎で、俳優の出入りや音楽・照明の変化の合図となる動作や台詞を指す用法が古くからあって、国語辞典にも立項されています。
ところが英語の cue のほうは、分かっていませんでした。1550年代には現れるのですが、Online Etymology Dictionary は “of uncertain origin”(由来不詳)と明記しています。「アルファベットのQを綴り出したもので、ラテン語 quando(いつ)の頭字だ」という説明をよく見かけますが、これは伝承であって確定説ではありません △。
ここにも実務があります。出演者の方は「曲の何小節目で」と伝えようとすることが多く、照明側は「見て分かる動作」を求めていることが多い。音なのか動作なのかを詰めておくと、事故が減ります。
おわりに
午後7時。客電が落ちて、SEが流れ出す。
その一瞬に至るまでに、いくつもの合図が交わされています。上手か下手か。ツラか奥か。キッカケは音か、動作か。どれも、先に決めておかないと事故になる言葉です。
そして今回いちばん驚いたのは、その中でもいちばん事故る「上手・下手」に、確かな由来が無かったことでした。説が3つ並んでいて、用語集自身が「定かではありません」と書いている。英語は演者視点で左右が反転し、フランス語は劇場の立地から名前をつけている。世界中の舞台で、左右の呼び方が、それぞれ別の理屈で決まっている。
それでも現場は回ります。回るのは、由来が分かったからではなく、括弧を付けて書いているからです。
そして、この記事で「分からなかった」と書いたことは、本当に分からなかったことです。もっともらしい説明で埋めていません。
次回は、開演のあと──時間の言葉です。「押す」と「巻く」。双子のように対になって見えるこの2語は、辞書の中では扱いがまったく違いました。片方には1952年の用例が残っていて、もう片方には、語義そのものが立項されていません。
主な出典
- シアターリーグ 舞台用語辞典「上手・下手」・「板付き」/チャコット 舞台用語辞典 ── 3つの説と「語源は定かではありません」の確認に使いました
- コトバンク「ホリゾント」「出囃子」「切っ掛け」
- 日本劇場技術者連盟「劇場に係る用語の解説」 ── 暗転・明転、板付き
- Scenic & Lighting「Gobo is not an Acronym」 ── 初出年と語義の記録
- Online Etymology Dictionary「cue」
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